百道の松
私の一番古い記憶は、今の百道浜は埋立地と呼んでいて、一面何もありませんでした。
よかトピア通りより北側は、昔は海だったことをご存知の方も多いと思います。
今の百道から西新にかけて海岸沿いには松原が広がっていたそうです。
ちなみに西新にはひっそりとこんな碑も!
個人的に「松の木」はとても馴染み深い樹木です。
理由は単純で、母校の百道小学校・百道中学校にたくさん生えていたから。近所の西南大学にもたくさん生えていたから。
学校の中庭はもちろん、運動場のまわりも松の木でぐるーっと囲まれていました。
今、運動会などは保護者がテントをもって場所取りで並ぶのが一般的になっていますが、運動場の周りが一面松の木陰だったので、百道小は今でもテントはいらないのではないでしょうか?
掃除で外の当番になると松葉が山のようになっていたし、松の木に薬を打ったあとには地面が毛虫で覆われるし。うっかり松やにを触ろうものなら、石鹸で洗っても落ちないし、臭いし。
松ぼっくりを投げあって先生に怒られたりもしました。
そして小学校の校歌には、“とびうおはねる百道の浜の 松の緑はぼくらの姿、私の姿“、
中学校の校歌には、”松千載の色に映え、砂白妙の玉を敷く ああ清浄の百道原“と校歌の歌詞にも「松」が入っています。
この百道の松の木は百道松原の名残なのですが、実はこの百道松原、江戸時代に入り1618年、初代福岡藩主の黒田長政が松の植林を命じ、百道の砂浜は博多湾の潮風をさえぎる美しい松原にかわっていったのだそうです。
なんと、子どもの頃に遊んでいた松は黒田長政の時代からある松だったんですね。おどろきです!
小学校は校内に元寇防塁の跡もあったので歴史を感じずにはいられません。
室見川の河口の百道浜側は、「百道浜西緑地」として整備され、ランニングやウォーキングを楽しまれる方が多くいらっしゃいます。そしてその先のシーサイドももち海浜公園は埋め立てて造成された人工海岸です。
ここに松林があるのですが、黒田藩時代の百道松原を再現しようと市民ボランティアと行政が一体となって植林したものだそうです。
ここは昔海だったのに、この松はいつからあるんだろうとずっと思っていました。
百道の松の木、ずっと守り続けていきたいものですね。