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Memories of 1995始動

個人事業主

1995年5月。中途半端な覚悟とともに独立した。当時は株式会社を設立するには1,000万円、有限会社でも300万円の資本金が必要だった。当然そんな金はなく個人事業者としてスタート、屋号は「シーサイド住宅センター」。やる事は、ユーザー獲得の為の投げ込み(ポスティング)ばかり。紹介や知人はしがらみが多いので主軸に置かない、とにかくエンドのお客さまから電話を貰うのだ!出来れば売主さん。自宅内の一部屋を事務所にしていて、そこで投げ込み用の手作りチラシをリソグラフで印刷する。かなり大きな音がして、今考えるとよく苦情が来なかったと思う。応接室もなく当然来客も無し、看板や屋号を入れたネームプレートもなし。事務所と分からない様にしていたけど管理組合規約には違反していたかもしれない。

必死でやっていると、ぽつりぽつりと電話が鳴る。(当時の反響は殆ど電話で、たまにFAX)何故か大会社の出先機関や、優良法人と勘違いして掛けてくる。一番驚いたのは、福岡ドーム(現PayPayドーム)の運営会社ですか?と言われた時。狙った訳じゃなかったけど、勘違いしてくれるネーミングだった。

今でこそ、スタートアップ支援、ベンチャー起業家、フリーランスなどと言って起業家は市民権を得ているけど、当時はそんな風潮は全くなく、限られた優秀な人が相当な覚悟と資本金を持って独立起業していたイメージだ。自分みたいに何も考えずに始める者は少なかった。

スタートしたての頃は、節約の為後輩に借りた250ccバイクで、物件確認・調査などに行っていた。余談だが、仮に筑紫野市の土地を簡易評価してくれ!などと頼まれたとして、今ならグーグルストリートビューを見て、ネットで謄本の取得、相場や都市計画などを調べれば1時間くらいで終わる。ところが、昔は車で現地に行って法務局で謄本や公図を取り、市役所で都市計画など調べているとほぼ一日かかる。少しでも効率的作業するのに機動力と経済性に勝るバイクは役に立った。

また当然ながら何度か辛酸もなめた。当時、自宅などの売却希望者や購入希望者がターゲット顧客だった。買いたい方の案内は物件の現地集合で問題はないが、売りたい人は事務所に行っていいか?と言われるも、「訪問させて下さい。マンション一階のロビーでお会いしましょう。」と言ってかわしてきた。会う事が出来れば大半の方はちゃんと話を聞いてくる。でも中には法人じゃない、事務所もないと分かると、うてあってもくれない(相手にもされない)事も多かった。織り込み済みなので悔しくはなかった。でも一度だけ「あんたとこは法人じゃないとね?話にならん。何しにきたとか!帰れ。」と名刺を目の前で捨てられた時はちょっとだけ悔しかった。当時は大手企業が偉い。高学歴者だけがまともな人間と思っている人がまだまだ多かった。でもお客さまと会う事さえ出来れば、そこそこ勝てた。売買も賃貸も地域がら競合はすべて大手不動産会社。競合したら絶対に負けないを信条に、夜討ち朝駆け、お礼状に電話、当時はそんな営業が通用していた。売り物はこの俺がすべて。清潔感と好感が持たれる身だしなみを考えて髪型・スーツ・靴・ネクタイなど必至で拘った。最初にお金が入った時に買ったのが、ゼロハリバートンの一番いいアタッシュケース。当時10万円くらいだったけど、自分にとっては高級品だ。

しかし現実は甘くない、当時夕方まで仕事、食事をすませ21時くらいから投げ込みに出る。24時くらいから知り合いのバーで飲む。そんな生活をしていたら、ある朝39度超えの熱が出て動けない。病院で診てもらうと、「一週間くらいの療養が必要です。直ぐ入院出来ますか?」と。アルコール性急性肝炎らしい。入院は出来ないので自宅療養する旨を伝えて帰ってきた。病床に就くと弱気の虫に支配されそうになる。少しの契約は出来ていたけど、入金はまだ先だ。経済的にもヤバくなってきた。気合と根性だけではやはり無理なのか。生活安定のために深夜アルバイトにも行くか。等々。(実際深夜送迎の面接に行ったが思いとどまった。)そんな時期、自分に勇気を与えてくれた存在があった。野茂英雄さん。単身メジャーリーグに乗りこみ日本人として実質的に初めて大活躍をしたヒーロー、日本人も米国人も熱狂した。恐れ多くも自分を彼に重ねて、絶対にここで負ける訳にはいかんと自分自身を鼓舞した。野茂さんは俺のヒーローであったけど、震災復興中の日本人の誇りでもあった。(続く)


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